訳さなくても伝わるもの 訳しても伝わらないもの

(c) Hiroshi Sugimoto, Courtesy of Odawara Art Foundation
(c) Hiroshi Sugimoto, Courtesy of Odawara Art Foundation

先日、イタリアで人形浄瑠璃を観た。現代美術作家の杉本博司氏が演出・映像を、人間国宝の鶴澤清治氏が作曲を手がけた「曾根崎心中」。ワールドプレミアとなる欧州公演は、フランス、イタリア、スペインの3カ国。イタリアは、ローマの歌劇場が舞台に選ばれた。

 

私がなによりも驚いたのは全てが日本語で行われ、その間一切のイタリア語訳が行われなかったにも関らず、公演終了後は観客総立ちで拍手喝采であったことだ。浄瑠璃語りの口上は古風に優雅で、日本人の私でも聞き取ることが難しい場面が幾つか在ったから、装飾も華やかなオペラ歌劇場で大きな拍手をおくるイタリア人は、一体何に感動したのかと一瞬考えた。それから思った。

 

いいえ、違う。これはきっと言葉の問題ではない。多分、彼らはそれらを超越する部分で、人形が見せた考えられないほどの動作の精緻さや繊細さ、人形が象徴した人の心の耐えきれない痛みを「直感的」に感じ取ったのだろうと思った。

人間の直感に訴えるもの、また時間を超える力の在る価値は、空間やそこに付随して生まれる文化の壁も簡単に超える力を持つ。この場合、言葉による翻訳は、それを補助するのみの力しかなく、だから例え補助がなかったとしても、人はその価値を強く感じることが出来るのかもしれない。故に、公演は日本語一本で進められたのだ。逆に、長い時間の中でその場所固有の意味を持つに至った価値は、訳してみても、それは同じ歴史上の価値を共有する人間にしか理解することができないように思う。

 

例えば、古典を訳することを仕事とする人が、日本人が和服の正装で着用する「白足袋」を訳そうと苦慮したあげく、結局最後に「白手袋」を選んだと聞いたことがある。一瞬不思議な発想だが、白足袋自体が存在しない文化圏では、「白いソックス」と直訳しても、それを着用することによって象徴される相手への礼の思いは、伝えることが出来ない。そこで西洋の正装の場面で似た意味を持つ白手袋が最後に選ばれたという。現代の日本の日常生活で言えば、「お疲れ様です」「いつもお世話になっております」等の文句も、直訳してみても決して他の文化圏の人々にはその配慮の加減が伝わらない。謙譲の気持ちや密な地域共同体が、昔の社会の基本要素であった日本に、固有な言い回しだからだ。

 

訳さなくても伝わるもの、訳しても伝わらないもの。文化にまつわる話は、全く尽きない。