英語脳と日本語脳 二つの脳はどう向き合う

先日のブログに、語学の上達は、その言語によるインプットの多さによると書いた。日英のバイリンガルの場合、頭の中に日本語と英語のフォルダーが二つあって、場面に応じてどちらかを取り出して使うイメージ。日英同時通訳者は、この二つのフォルダーの充実度のみならず、フォルダー間を瞬時に自由に往復できる訓練が徹底されているのだろうと、時々思う。同時通訳の特別な訓練を受けていない普通のバイリンガルの場合、一つのフォルダーを一端開ければ(一度英語で考えだすと)、もう一つのフォルダーは閉じられたままのはずだ。少なくともお互いを10秒おきに交換したりはしない。

 

日本語脳に保存された事項を英語で話す。 また英語脳に保存された事項を日本語で話す。このような場合、何が起こるだろう。

まず、日本語脳に保存された事項を英語で話す試みから。当たり前だが、日本語脳の充実度は、日本語によるインプットの多さからなる。インプットは多くの場合、週5時間の英語の授業ではなく、私達が24時間生きて見て吸収する過程で起こる。子ども時代を完全に日本で過ごした私の場合、子ども時代を英語で詳細に話してといわれると、少々窮する。当時の出来事は全て日本語で記憶されているからだ。小さい頃は東京に住んでおりましてこんな学校に通いました、という世界共通項をたどれるレベルは問題ない。しかし、駄菓子屋さんに親に連れて行ってもらった時の胸の高揚感や、小学校の掃除当番の雑巾がけを、天才的な器用さで先生の目を盗み両足で滑ってかけていた同級生の武勇伝(楽しそうでちょっと羨ましかった)あたりを詳しく話す出すレベルとなると、そのような文化や生活習慣自体を持たない欧米の言葉で色豊かに表現しきれない。まず、駄菓子屋さんの説明を彼らに、如何せん始めようかと、考えるだろう。

 

反対に、現在全てのインプットが英語で行われている仕事の話を、日本語でして下さいと言われると、やはりちょっと困る。インプットが全て英語だったために、全てが英語で記憶されているからだ。世界の飢餓を撲滅したい、という普遍的なレベルは日本語でも苦なく行けるが、少し込み入った話になると良い訳が出てこなくて、うー、あー、えーと、うー、と言葉が日本語の形をとってこない。怪訝な表情の相手を前に、正直冷や汗が出る。なので、集中して話すとわかっている時は、事前に辞書をひいて「日本語」を予習することになる。特に私の仕事のように、完全に欧米主導で発展している分野には、日本語にすっきり訳しきれないコンセプトや用語が数多くあるように思う。

 

英語脳、日本語脳、それぞれの構築にインプットの言語がどれだけ大きな影響を与えるか。脳の英語フォルダーを充実させたいと思うならば、まず英語のインプットの量を端的に大量に増やすこと。これも数時間の増加ではなく、子ども時代にドロケーに熱中した時間x5くらいはいっていいのでは。やはり上達には、これにつきると思う。