器に見る「日本の価値」とは

書物に裏打ちされた歴史を1000年、2000年単位で長く持つ地域がそう多くないように、食文化を外より独立した形で認められている場所は、日本人が思うほど世界に多くない。世界でパリを抜き最もミシュラン星を多く持つと言われる東京でさえも、触れることの出来る食文化の幅は、仏伊西中印韓タイ、ベトナム等とかなり限られる。以前、コンゴ・ザンビアの国境にある難民キャンプで食事をした際、これは一体何料理に分類すればよいのだろうか、と頭をひねったことがあった。ガーナを訪問した時にも同じ疑問が浮かんだ。地球を広く俯瞰してみれば、やはり、個性を確立した形で外からも認められた食文化、というものは普段私達が考えているほど多くない、と思う。

 

食事が終わった時に、思わず器を手に取ってみたい衝動にかられるのは、いつも和食なのはなぜだろう。その土地の土をその土地の水で捏ね、火で焼き、風で乾かされた食器は、その職人の魂も宿って、世界の五要素を全て含むという。柳宗悦は、その著書「茶と美」の中で茶器の美しさは隠れた場所、特に高台に宿ると書いた。滑らかな釉が滴る陰の中で、素朴に土の肌と作り手の魂の軌跡、また時に激しい火の炎の跡を見せるその部分は、やはり必然的な和を伴い美しい。また、今日採れた笹の葉が、黒く光る緑と水滴を滴らせそのまま皿としてその晩に出される様。その瑞々しさは、その上に載った食材のそれもきれいに映して、粋だと思った。

 

欧米の食文化という枠組みの中で言えば、ここまで器に神経を注ぐものを残念ながら見たことがない。彼等にとっては、全ては器の中身に始まり、器の中身に終わる。あれほど古く苔むしたチーズや、喉の奥をゆっくりと焼き切るような深いオリーブ油の薫りに妥協なき熱意を傾け、味覚としての統一感にこだわるイタリアの人々も、視覚や触覚を通じた器の話になると、さっぱり響いてこない。そしてあそこまで靴や家具にこだわる国であるのに、良い食器のお店が存在しない。これは一体何故だろうと彼等と話をする中で、ある時、この文化に生きる人々は地球との一体感を、私達日本人がほのかに感じる形で生きていないからだ、ということに気がついた。秋の月を、湖畔に映り揺れる陰と共に「美しい」と感じ謳う詩人が彼等の文化圏に存在しないように、哲学的な理解の次元を超え、自然との繋がりを素朴な質感や色彩をもって捉える繊細な感性を、彼等は持ち合わせていない。これは丁度、華やかで流動的な美しい装飾や、勇壮でドラマチックな旋律を生み出す感性を、私達日本人が持ち合わせてこなかったのと同じように。

 

宇宙の元素を火に焼かれる形で静かに内に込め、またはそれの幾つかを水に洗われる形で瑞々しく留め、同じ源を分かつ同胞(食だろうか)を優しく抱き、そこに在るという和の器のあり方。人間としての格を「器」と表現するのも、日本語らしい特徴と思う。器は、私達の長い歴史に支えられる形で、「日本らしさ」という価値の一つを体現していると思う。