それでも、なぜ良いことをしたい

10年前と比べ現在の日本社会で何が大きく変わったかと問われたら、「善のために行動を起こすこと」が広く深く社会に認知されるようになったこと、と答えると思う。昨今の社会起業家の活躍や著名人の慈善活動を通じて、10年前はボランティア等を通じて小さな分野で続けられてきた活動が、今は社会の前面に押し出された感がある。特に東日本大震災後は、これが増々広く一般社会に受け入れられ浸透したと思う。近所レベルでの思いやりや助け合いといった風習は古くから日本社会に存在していたと思うが、社会変革というスケールでここまで大きくスポットライトがあたることは、私が日本という国を離れた時にはなかったと記憶している。

 

今は広く社会に認知された「良いことをしよう」という行動であるが、何が「善」であるのかということに加えて、「善」を目的とした行動が常に逆効果を生む危険性をはらむ悩ましさについては、前に書いた。にもかかわらず、何故私達はこうまでも良いことがしたいのだろう。相手が喜んでくれると自分も嬉しい。相手のためになることが自分の生き甲斐、等々。考えていたらなかなか面白そうな結論に達しそうなので、今回のテーマは、これでいきます。

 

組織でも昨年殉職者を出したソマリアのオペレーションで、最近まで現場に残って活動した同僚と話をする機会があった。毎日朝4時まで仕事をしたそうだが、その多くの時間が、刻々と変化する状況把握のために費やされたそうだ。仕事を前に進めるために、そして自分達の身に迫る危険を察知するために、武装勢力も含め核となる人間達の誰が、何処で何をしているのかを周知することが必要だったという。治安が悪化した時に彼が最初に帰宅させたのは、現地スタッフであった。外国籍の彼は、最後まで事務所に残ったという。「何かがあって国の外に出られるのは、自分達であって、彼らではないから。」そして最後に一言。「本当に結果を出したかったら、自分が良いことをしているという自意識を捨てろ。」権力争いと衝突が続く現場では、誰も彼の仕事を感謝する余裕はなかった。そのような状況では、この自意識がまず邪魔になったという。「自分の信じた善に貢献しているという自らの思いなしに、命の危険まで犯して、何のためにそこに居たのか。」私の口を思わずつきかけたその質問は、結局、発せられることはなかった。

 

自分の生命が危険にさらされる極限に近い状況は、現代の日本社会の中で頻繁に発生する類いのものではないので、これをすぐに適用すること自体には無理がある。しかし、ある種極端とも言えたあの状況は人間の思考の無駄な混乱を削ぎ落とし、小さな一つのことを示したようにも思う。つまりは、良いことをしているという自意識を超えても、人を駆り立てる何か。また目の前の誰かに感謝されてもされなくても、前に進む何か。良いということの定義についても、その実行の過程についても、この中には透明な祈りのような要素があるのかもしれない。厳しい状況の中で長くコミットメントを続けるには、他の要素も多分に関ってくる。しかし、人間の良いことをしたいという思いの結晶の奥には(結晶に不純物は常に付き物であるが)、何かそのような気配を感じる今日である。