ヨーロッパ的現代の男女関係論

ヨーロッパでは、男女一対が行動の単位になっており、一人身の人間にはレストランやコンサート等、彼等が社会生活を営む場所で、ほぼ市民権が与えられていないと言ってよい。ランチを女友達2人で摂るのは問題ないが、夕食に女性だけまたは男性だけが大勢連なって出かける光景は、まず見られない。コンサートに女性だけが連なって出かける風景もどうだろう。やはり行動単位は男女一対という風習が根付いているらしい。随分昔、酒井順子さんの「負け犬の遠吠え」を読んでその指摘に笑ってしまった覚えがあるが、東京と反対にヨーロッパの都市は、彼女達にとって非常に住みづらい場所だ。

 

対の関係で必ず出てくるのは、レディーファーストの問題である。この地域の人々は、これが非常に徹底していて、ドアを開ける側、空間に先に踏み入れる側、エレベーターで先に降りる側等が明確に決まっている。これを間違えると、「え???」となってしまい双方かなり気まずい思いをすると思う。イタリアで車を自分で運転してみれば、その走行車線争奪合戦の凄まじさをすぐに知ることとなるから(譲り合いなどありえない)、如何にこのコンセプトが、時と場面を上手に選び運用されているかがわかる。これは、男女関係を社会生活の基本単位と位置づけるヨーロッパが、押し寄せる社会構造の変化の波の中でも残すと決めた、精神的な一種の遊びの「型」なのだと思う。遊びは、その大人に余裕がなくては出来ない。遊びは、真剣勝負とは別の場所に存在する。そしてその遊びのルールは国の文化や歴史によって異なるから、日本には同様の習慣がない。

 

この習慣が完全男女平等の職場(=公の空間)で適用された時は、どうだろうか。オフィスのエレベーターで偶然乗り合わせた誰もが知る非常に重役の一人が、自らの手でドアを押さえ私に先に降りるように促した時、この人はこう来るか、と私は正直唸る思いであった。ラオスで男性の上司を持ったが、彼が同様に事務所でも常に私を先に通すので、ある場面でお互いに譲りあってしまったことがある。フランス国籍の男性スタッフも自分のチームに持ったが、しかし、この時には何の傾向も出てこなかった。この事実も、小さな何かを物語ると思う。

 

「男女平等?なぜ優れている私達女が、男達のところまで下がってきて、平等にならなくちゃいけないの?」と言ったニューヨークのオノ・ヨーコを、ローマの塩野七生は、単純明快すぎて色気がないと吹き出したそうだ。やはりこれは、この地域の生んだある種、精神的な遊びの型なのだ。今日(こんにち)のヨーロッパにあっては、男女問わず、精神的に余裕のある方の。