誰かに作られてゆく国のイメージ

土曜日の昼下がり、ローマのスペイン広場から西へ続くコルソ通りを歩くと、一瞬日本に戻ったかの錯覚におそわれる。イタリアの名だたるブランド店の多くが軒を連ねるこの通りが、こぎれいな身なりをした日本人で溢れているからだ。一時よく見られた旗を振るガイドの後を、カメラを下げて歩く旅行者というのは姿を消し、品良く洗練されたカップルや女性の2人連れが目立つ。本人達は気付いていないと思うが、タンクトップ姿でサンダルを引っ掛け歩く欧米旅行者の中で、彼等は異様に目立っている。このような場所はローマでもほんの一部分で、通りから少し離れてしまえば日常のローマが際限なく広がることになる

 

コルソ通りを歩く日本人に、首都発のイタリア国鉄が毎朝予告もなく普通に30分遅れると言ったら、彼等はきっとさぞ驚くだろう。また、ラッシュアワーである朝8時にたった4本走るだけの電車が、8月の休暇シーズンには更に2本に減ってしまうと言ったら、どんな顔をするだろうか。

 

場所を日本に移す。友人達と東京でお洒落なお昼をとろうとなると、大半がイタリア料理になる。器の柄と素材の色を巧みに組み合わせ美しく盛りつけられた料理や、旬の素材の薫りを活かした料理などそのほとんどは、日本料理独特の繊細な感性を感じさせるものだ。またそこはとても、すっぴんで入れる雰囲気ではない。他方、現地のイタリア料理は、地中海の太陽と水をたっぷり吸収して育った野菜や魚介がそのまま勢い良くお皿に乗って出てくる豪快さにあると思う。朗らかさ陽気さ豪快さといった気質は、料理だけでなくレストランで料理を運ぶスタッフの顔にもよく現れており、この国のある一部分を成している。このように二つの料理は同じ名前を持つが、そこには違いがある。

 

日本人の誰もが抱いているお洒落なイタリアというのは、ある程度までは事実で、それから先は我々日本人によって精巧に創られたイメージだと思う。事実、イタリア人のほとんどはお洒落とは無縁の質素な生活を送っている。2ユーロの差で眉毛をつり上げ店員にかみつくのが、彼等である。これはフランスにも同じことが言える気がする。女性誌を飾る「秋はイタリアへ」といったコピーや、男性誌が掲げる「イタリア人男性に学ぶ###」といった文句が、日本人の中に一定の意識を植え付けているような気がする。

 

国のイメージというのは、何者かによって作為的に作られたものだと思う。コカコーラやマクドナルドのように、よっぽど自分たちが意図的にイメージを浸透させている場合を除けば、そのほとんどは他国の誰かがある目的で作っている。その国で人々が最も信頼をおく情報源(イタリアの例で言えば日本の雑誌等)やその国の人々が好んで使う商品(食品を含む)を通じて、外国のイメージは形作られてゆく。それがその国の実態に沿っていようが沿っていまいが、あまり重要ではないらしい。

 

ここで、他国が持つ日本のイメージについて考えてみる。現時点では日本のテクノロジーを象徴する秋葉原と京都が大きな部分を占める気がする。出身地域や世代によって、原宿が入ったり富士山が入ったりするかもしれない。これは日本が海外に戦略的に売り出したイメージであったか、それとも他国で勝手に生まれたものか。日本を訪れる海外旅行者数は、世界で33位と非常に低い。主体的に国のイメージをデザインし、影響を及ぼすべきターゲットを絞り、最良の手段をもって日本の良さを世界に売り込む集団が、日本にあってもおかしくはない気がする今日この頃である。