コミュニケーションのための英語 3つの誤解とゴールについて

私は以前のブログに、グローバルな人間の定義の一つに「様々な出身の人々と対等にコミュニケーションを取ることのできること」を挙げた。様々な出身の人々と対等にコミュニケーションを取るためには、共通の言語がどうしても必要であり、日本語を理解する外国人は地球全人口60億人規模からすればほとんど皆無に等しいので、日本人は国境を超えるとなると、どうしても他のマジョリティーが理解する言葉を学ぶことが求められる。人口からするとスペイン語を話す人間の数が最も多いが、現時点での国際的なコミュニケーション言語は英語であることは事実だ(数十年後、変わるかもしれない)。

 

しかし、日本には英語に対して特有の拒否感があると思う。何故かと考えたが、まず背景には3つの誤った共通認識があるように思われる。

 

まず、完成形になるまで使うのは恥ずかしいという思いが、多分一般に存在する。ここでは、誤るのが恥ずかしいと思うこと自体を、誤りであると悟ることが大切だ。外国語なので誤らない方がおかしい。少しでも吸収したならば、表現し始めた方がいい。例えば「えくぼ」の単語がわからないからといっても、その場で下を向いて辞書を惹き始めるのではなく、「頬のチャーミングなへこみ」と言えば、誰でも理解してくれる。ラオスに仕事で4年住んだが、ラオス人は文法も誤りの英語を平気で話し、お互いそれを理解して共に仕事をしていた。イタリアでは、5カ国語(ギリシャ語、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語)を操る同僚と机を並べたが、彼女には向上心はあっても、間違うから話しませんという態度は皆無であったのが印象的であった。誤ったままでよいのではなく、上達するためには、誤ることを恐れてはならないということ。

 

次に、言語能力が点数で測れるとは思わないこと。日本のTOEICの点数信仰は、偏差値教育の名残から来ているかと思うが、何点取ろうが、読み書き表現できない人は、出来ない。現地でインド人にあの特有のアクセントでまくしたてられ、イギリス人からウィットに富んだ文脈を理解するように期待され、ドイツ人から理路整然と議論を持ちかけられた時に、数パターンの操作のみで高得点が採れてしまう試験の点数は決して通用しない。またこういった試験は、如何に相手の行間を読んで対応すべきかの能力を測れない。勉強は有益だが、点数を過信するのは誤りである。是非、企業の人事部の方に伝えてみたいポイントでもある。

 

そして、語源が異なる言葉を、日本語で直訳しきれるとは思わないことだ。歴史文化が異なる二つの言語を訳しながら理解しようとするのは、かなり困難な試みだと思う。「どじょうの政治」を上手く英語メディアが訳せなかった様に、背景の文化が異なった場合、それをも含有する表現を見つけるのはかなりのエネルギーが必要である(それを専門の仕事とする場合は別)。他にも日本語を英語に直訳すると、I am sorryのオンパレードになってしまうことがあり、聞いている方は?となってしまう。やはり外国語の学習は、その国の言葉で聞き、その国の言葉で考え表現できるようなるまでが目標であると思う。日本語を介在させないことは、外国語上達の近道だ。

 

言葉を学ぶ極意は、徹底的にまねることだと思う。音、言葉の羅列の仕方、話す時の表情などを、それぞれのシチュエーションに分けて、自分の中で再生できるまで繰り返し練習すること。創造性などはここで発揮しなくていいから、とにかく辛抱強く訓練の繰り返し。多く繰り返した方が良いので、一度現地に身を置くのは、悪くない考えだ。留学が好ましいのはこの理由からで、海外で日本人とばかりいる留学生に上達は期待できないと思う。塩野七海は、新聞とゴシップ記事でイタリア語を勉強し、加藤嘉一氏は、売店のおばさん/おじさんと会話することで中国語会話をマスターしたという。方法はいろいろあれど、目指すゴールは似ている気がする。

 

言葉を学ぶことは、相手の文化を学ぶことでもあると思う。相手の文化を学ぶと、自国の文化が気になってくる。確かに苦労は多いが、学ぶことによる実りも多い気がする今日この頃である。